日本地図作成の隠れた偉人・森幸安について、「日本分野図」を軸に簡単にまとめています。日本地図といえば伊能忠敬が有名ですが、実は彼以前にも日本地図を作製した人物は存在します。地図をつくったというだけでも素晴らしいことなのですが、その製法はもっと驚くべき方法でした。そんな森幸安と「日本分野図」について、さっそくみていきましょう。
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森幸安(もり こうあん、ゆきやす)とは?
森幸安は、江戸時代中期に活躍した地図考証家です。実は「日本分野図」という日本地図を、あの「伊能忠敬」よりも約40年以上前に作成していた人物なんです。
1701年に京都で生まれた森は、10代で医師の元で勉学に励みました。その後、叔父の香具屋を継ぎますが、1729年30歳で隠居の身となりました。
- 伊能が47歳で隠居したので、森はさらに早く隠居したことになる。
名所や景勝地へ足を運ぶことも多くなり、大阪へ転居の後に地誌を完成させました。さらに、地図への情熱が高まり自ら勉学にいそしむことも若いときから多かったために、積極的に挑んで行ったことが想像しやすいでしょう。伊能忠敬については別記事でまとめています。
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「日本分野図」完成までの道のり
1748年~1763年に、森は「日本輿地図」(にほんよちず)を完成しますが、京都や大坂で日本だけではなく世界の地図を収集し、書写することにも没頭したと言われています。地図は測量をして製作するものというのが、当然だと思うものですが、情報収集によりこれほどまでの地図を完成した森の功績にも、驚きますね。この中に日本分野図があるのですが、初めて緯線や経線が記されているのが注目されました。森は、地図を製作するために西洋の思想や技術についても丹念に調べて、それを地図に反映しています。
伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は正確な地図としての偉業がありましたが、森の「日本分野図」は彼の日々の研究や情報収集があってこその成果だと思えます。
測量の痕跡は見つからない
伊能は、全国通津浦々で歩測をしたという途方もない偉業を成し遂げた人ですが、同じ地図の作成でも、森の方は街の情報を盛り込んでいる点が大きく異なります。測量をして回った痕跡も見つからないとされていますが、その土地の情報を得るためには地誌を積極的に学んだり、足を運んだりして、その土地の人々から情報を得たものだとされています。
伊能は、測量を元に正確な地図を製作したのに対し、森は、その土地にある歴史からその当時までの流れをできるだけ網羅した内容を客観的に製作しました。
まとめ
こうした森の活躍で彼が製作した地図が300枚ほど伝存しているのは、日本の地図の移り変わりの中で見逃せない大きな役割があります。国立公文書館にその多くが保管されていることから、森の功績が今も日本の地図の移り変わりの証拠として残されていることが分かります。伊能忠敬だけではなく、日本にはこのように地図に関わる功績を成し遂げた森幸安がいることも誇りに思えるのではないでしょうか?記事中では触れられませんでしたが、奈良時代の僧侶、行基という人物も地図を作成しています。彼が作成した行基図については下の記事で紹介しています。
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